日本人キーン・ドナルド(2)
キーン・ドナルドは、子供の頃から折り紙付きの秀才だった。そのため、二回も飛び級で進級し16歳の若さでコロンビア大学に入学している。大学に入学してからも、その頭脳は難解なものへの探索に向けられ、同級の中国人と親しくなると漢字に興味を抱くようになり、その興味は中国語を本格的に学習しようとする意欲へと進んだ。
その頃、彼は別の富裕な学友に誘われて日本語の勉強も始めている。
日本語の勉強を始めて見ると、それは中国語よりも何倍も難しいことが分かった。キーンは、数人の学生仲間と共に富裕な級友の別荘にこもって日本語の勉強を始めたのだが、彼を除く学生たちは、音頭取りの金持ち学生を含め、皆、日本語の難しさに音を上げて勉強を放棄してしまった。唯一残ったのは、難解なものにこそ心惹かれるキーンだけだった。
彼がアメリカ海軍の開設した日本語学校に入学したのは、日本との間に戦争が始まってからだった。この学校にはアメリカ国内の一流大学から、文科系学生で上位5%以内の秀才が集まり、異様な雰囲気を呈していた。キーンは書いている。
<私は小さいときから常に一番できることに馴れていたから、自分より頭のいい人がいることに初めは不快だったが、後にはそれが刺激にも励みにもなった・・・・(その努力のおかげで)卒業式の日、私は総代として日本語で演説する栄誉を得た>
この学校で日本語を学んだ仲間の多くは、戦後に、継続して東洋文化を研究しようとする場合、東洋文化の源泉が中国にあるという理由で中国研究の専門家へと転身していった。だが、キーンは日本研究から離れなかった。彼は文学を愛し、芭蕉・西鶴・近松門左衛門などに傾倒していたからだった。彼は中国の「紅楼夢」には嫌悪しか感じなかったが、日本の「源氏物語」には深い愛情を感じていたのである。
もう一つ、キーンをして日本から離れがたい思いをさせたものに、戦争中に読まされていた日本兵の日記があった(日本語翻訳将校として、彼は戦場で拾得された日本兵の日記を訳読する業務もしていた)。
彼はやはり上から命じられた仕事として、アメリカ兵の手紙を検閲のため読んでいたが、アメリカ兵の書いたものよりも、無名の日本兵の書いた文章の方に、より一層心を打たれることが多かったのだ。
復員してコロンビア大学に戻り、日本人の角田教授に師事して日本文化と日本文学研究を再開した彼の胸に、次第に確信のようなものが芽生えてきた。
<なぜ自分はこの世に生まれてきたか、それは日本文学を研究するためだ>
こう思い定めた彼は、日本の京大に留学し、イギリスやアメリカの大学で教鞭を執るようになる。そして、ついに日本に永住し、日本国籍を取得するのである。愚老は、キーン・ドナルドをしてこれほど日本に執着させたものが何であるか知りたいと思ったが、当方が所持しているキーンの著書二冊では彼がこれまでに書いてきた厖大な日本関係の著作群に比べたら、その何十分の一にもならない。
愚老の疑問を解くためには、少なくとも彼の著書10冊を更に読まなければならない。が、今回は既読の二冊から得た仮説だけを次回に示して、この項を終わることにしたい。(つづく))