日本人キーン・ドナルド(3)
キーン・ドナルドが母国に違和感を感じたとしたら、アメリカのどこに対してだろうか。
おそらく競争意欲が旺盛なアメリカ人の気質に対してではなかろうか。アメリカのように多くの人種・民族が寄り集まって形成された一種の「人工国家」では、自身の実力で他者を凌いで勝利者になることが美徳であり、キーンもそうした社会的風潮のなかで頑張り抜き、学校では飛び級二回という優等生になったのであった。だが、その結果彼は友人を失い、孤独な青春時代を送らなければならなかった。
(キーンには、分からないところが一つある。彼は妻子を持たず、二人の男性秘書と生活を共にしているらしいけれども、それはなぜだろうか。このあたりに、アメリカ社会に馴染めなかった彼の心性と体質が感じ取られるのである)
とにかくキーンは、日本兵の日記を読み、そして以前に読んだ日本文学を思い出し、アメリカ人とは異なる日本人の心性に強い魅力を感じるようになったのだった。
彼は司馬遼太郎との対談で、江戸文学の中に登場する人物たちについて、こう語っている。
「純粋に自分の感情のままに行動している。利害打算を考えることが全然なくて、儒教的な考え方もなくて、ただ、純粋に自分の気持ちのままに動いている。・・・・ひじょうに日本的です」
男と女が愛し合って、それが封建社会の壁に阻まれた場合、江戸文学の恋人たちは壁を打開するために努力しないで、あっさりと手を取り合って心中してしまう。これを努力を重ねて、トップを守り続けてきたキーンが、「自己の感情に忠実な行動だ」と賞賛する。
対談相手の司馬は、彼の言葉を聞いて「所属を失うということは、日本人にとってはたいへんなことですよ」とキーンに注意する。アメリカと違って、狭い国土の中に同一民族が密集して生きている日本では、「世間」という集団に同調することなしに生きていく方法がないから、恋人たちは諦めてさっさと心中してしまうのである。
その後遺症は現代に至っても残っていて、日本人は常に多数派であろうとして雪崩をうって右から左へ、リベラルから保守へと揺れ動く。これはある点で人間性の自然といってもいい現象だとして、キーンはこうした日本人の軽薄さを非難しない。
人間感情の流動性を許容するキーンは、漱石の「道草」「明暗」を嫌っている。自然に流れ動く感情を人間本来のものと考えるキーンは、執念深く自己に膠着してやまない「道草」や「明暗」の作中人物たちに嫌悪を感じてしまうのだ。
キーン・ドナルドは日本に永住して日本文学を研究しているうちに、芭蕉の「奥の細道」や謡曲を特に愛するようになる。そして「奥の細道」の叙述に導かれるようにして伊勢神宮を訪ね、伝手を頼って、遷宮式に参加する許可を得ている。だいたい、彼は非宗教的な人間で、「宗教的儀式に居合わせると居心地悪く、苦痛さえ感じる人間」のはずだったのである。
その彼が二〇年目に新築された神殿の内部に参入したとき、何の抵抗もなく頭を下げ、柏手を打っていた。そのときの自分について、彼はこう記している。
<私は自分が既に底の知れぬほど貴いものを得ていることを感じていた>
それから二〇年がたち、次の遷宮式にもキーンは許可を得て参列している。
<20年前でさえ、五十鈴川は台風の後だというのに日本のどんな川さえ及びもつかない清澄さをたたえていた。神域にそそり立つ木々の威厳、空気のすがすがしさは、それだけでも神に近かった>
男と女が心中する事件のうちに人間性の自然を見ていたキーンは、能楽や俳諧の世界をくぐることで日本的なアニミズムの世界に参入したらしい。競争社会のアメリカに生まれたキーン・ドナルドは、非アメリカ的なアニミズム世界にたどりつき、名実ともに日本人になったのである。
愚老は、こうしたキーンの跡を追うことが出来るであろうか。