甘口辛口

自炊本をめぐる迷走(1)

2014/12/14(日) 午後 2:22
 「自炊本」をめぐる迷走
 これまで谷崎潤一郎に関心を抱きながら、本を読む時間が出来ても,彼の作品をよけるようにして本を選んできたきた。その理由が奇妙であって、谷崎の本が面白すぎるからだった。
 愚老が彼の本を読んだのは、僅か数冊に過ぎない。けれども、そのどれもが変に面白かったから、拒否反応が働いて谷崎作品を敬遠するようになったのだ。こういえば人は奇妙に思うかも知れない。が、これと同じような心理作用はほかにもあるのではないか。あまり仇っぽい女を見たとき、男たちは相手に惹かれながらも、そうした女に近づくことを避けるのではなかろうか。
 このへんの心理については、ゆっくり考えてみることにして、ここで取り上げようとするのは、それまで谷崎を敬遠していた愚老が、今から二ヶ月前にインターネット古書店を通して彼の全集を購入したという話なのである。
 本屋が提示する目録を見ていたら、彼の全集が新書版で安く売りに出ていたので、つい、ふらふらと注文してしまったのだ。分厚い本だったらいろいろな意味で自分の手に余ると感じて躊躇したろうが、新書版の本なら、自炊本にしてパソコンで読むことが出来る、そうすれば、自分も谷崎の本を読む気になるかも知れないと考えて全集購入を決断したのである。
 ところが、自宅に届いた全集中の一冊を裁断機でバラし、ScanSnapにかけてみたところ、「ページの順送り操作」がうまく行かないのである。紙質の関係で切断されたページが相互に貼り付いたようになってしまうからだった。こうなると器械が自動的にストップするから、先に進めなくなる。
 そこでページの束を器械から取り外し、改めて銀行員が札束を調べるようにして紙を一枚一枚分離させて、再試行する。すると、しばらくは順調に作業は進行するが、やがて又ストップしてしまう。同じ新書本や文庫本でも、紙質が違えば流れるように作業が進んで、あっという間に自炊本の原型が出来上がるのだが、薄くて柔らかな紙を使用している本を自炊本にしようとすると、いつでもこうした思わぬ困難にぶつかるのだ。
 あれこれ手を尽くしてみた挙げ句、新書版谷崎潤一郎全集を電子本化することは不可能だと諦めた。だが、傍らに積み重ねられた全集の山を、そのまま放置しておくことは出来ない。(ダメモトだ。試しに、目視で読んでみるか)と思って、一番度の強い老眼鏡をかけて、バラバラになって散乱しているページの一枚を取り上げて調べたら、ちゃんと読めたのである!
 愚老は、最初から「新書版の本は電子本化しなければ読めない」と決め込んで自炊本の作製に取りかかったのだが、そんなことをしなくても老眼鏡をかければ、さほどの困難なしに全集を読むことができたのだ・・・・・
 いや、そうではない。
 これまで新書本や文庫本は、確かに、パソコンで文字を拡大しなければ読めなかったのである。が、パソコンでは全集を読むことが出来ないということが判明した瞬間に、後はもう老眼鏡に頼るしかないと感じ、従来とは違うすがるような気持ちで眼鏡を通して本を読んだ。だから、字が読めるようになったのだ。「火事場の百人力」という言葉があるが、これはそれなのではないか。
 いつかテレビが視力を左右するのは眼球周辺の細胞組織や神経組織だけでないといっていた。脳も総力を駆使して「見る能力」を強化するから、プラスアルファの力が生まれるといっていたが、今、全集をすらすら読めるようになったのは脳が助力した結果かも知れない。
 (つづく)