仏教か、キリスト教か?
こうした題名を掲げると、仏教徒とキリスト教を比較して、その優劣を論じると誤解されるかも知れない。だが、そんな大それたことは、考えていない。愚老が語ろうとするのは、NHK教育テレビの「こころの時代」に出演する講師についての印象批評なのである。
率直に個人的な印象を語るなら、仏教陣営を代表して送り出されてくる講師の話は、あまり興味を惹かない。これに反して、キリスト教の牧師が語る言葉を聞いていると、感動することが多く、「こころの時代」に関する限り、仏教側の講師はキリスト教のそれに比べて甚だ見劣りがするのだ。
では、なぜ仏教側の講師を選ぶに当たって、NHKは選択を誤ってしまうのだろうか。有名寺院の住職などをしている知名の「高僧」を講師に選ぶからだ。
仏教の各宗派は巨大組織になっていて、このヒエラルキーを駆け上がってキンキラキンの僧服を着用しているような高僧には、政治力はあっても、徳も無ければ学問も無いという面々が少なくない。「高僧」に品性下劣な人間が多いのは一休禅師時代の昔から現代に至るまで、一貫して変わらないらしいのだ。今時の有名寺院住職がいかに堕落しているか、水上勉の本をちょっと覗いただけでも明らかになる(愚老の知っている地方寺院の住職には、銭勘定とは無縁な優れた人物が多いのだが)。
高僧たちもそれなりに修行をして、悟りの境地に達したことがあるかも知れない。彼らの過ちは、悟りを得たことによって、そして自分が高僧として仰がれる身になったことによって、自分が衆愚を導く資格のある脱俗の人間になったと思い込むことなのだ。
悟りを得た人間は、種痘をして天然痘に感染しなくなった者のように、俗世の誘惑に死ぬまで負けない人間になったと錯覚してしまう。悟りを得たら、死ぬまで悟った人間であり続けると誤解してしまうのである。そこで他者を導く場合にも、いくら柔和な顔で相手に臨んだとしても、どうしても心理的に相手より上位にある者のように振る舞ってしまうのだ。
「こころの時代」に出演する高僧たちは、ホームレスの世話をするようなことをしない。だが、キリスト教の牧師たちは、実際に福祉の現場で働いていて、前科者に対してさえ、自分も同じく罪人(つみびと)であるとという立場から相手と対等に接する。高僧は、直ぐに増長し高慢になってしまうけれども、自分を生涯つみびとと考えている牧師は、誰と接している時にも常に慢心することがない。
キリスト教にもヒエラルキーがあり、もし「こころの時代」にカトリックの司教や枢機卿が講師として顔を出したら、仏教の高僧たちと同じように空疎な説教を得々と披瀝するかも知れない。
愚老は、「振り向けば、鬼千匹」と呪文をとなえ、過去の愚行を思い出すまいとしてきたが、自分を「生涯罪人」「生涯欠陥人間」と考え直すことにしたら、幾分、気持ちが楽になった。さらに、自分にとってトラウマになっているような愚行を自己弁護すること無く細部まで思い出し、その全体像を繰り返し反芻していたら、少しばかり自分が浄化されたような気にもなった。
人間は、虚心になって自らの愚かしさ、醜さを直視し続けることによってしか、救われないようである。