安心と不安
アメリカの女性脳科学者ジル・ボルティ・テイラーは、38歳の時、突然左脳の血管破裂による脳卒中の発作に襲われた。そのため、彼女は歩けない上に、語ることも出来ないという赤ん坊同様の無能力な状態に陥ってしまった。だが、彼女はその反面、たとえようがないほどの幸福感に包まれたのであった。
脳卒中の症状から脱するまでには数年かかったけれども、回復後の彼女は、自身の体験を脳科学者としての視点から解明して一冊の本を書いている。
彼女によれば、右脳の役割は世界が伝えてくるあらゆる刺激をイメージの形で取り込み、全宇宙の「今」の姿を把握することにあるという。右脳の中にあるのは、「全体」の相であり、その全体が示す「今」の相なのである。
左脳は、右脳が受け入れた「全体」のなかからその一部分を切り取って「個我」の意識、「私」の意識を構成する。そして、「今」を分解して私の「過去」と「未来」を作りあげる。左脳は、自分の必要とするものを右脳から取り込むだけで、それ以外のものを切り捨ててしまう。
だから、脳卒中のために左脳が働かなくなれば、右脳のとらえている「全世界」「全体宇宙の今」の姿だけが意識されることになる。すると、この静寂で壮大な「全体宇宙の今」のイメージが、人を至福の境地に導くのだと、ジル・ボルティ・テイラーいう。
ジル・ボルティ・テイラーのいうように、人間の右脳と左脳がそのような役割分担をしているとは、にわかに信じられないが、人の意識が二つの層に分かれていることは信じてもいいように思う。この二つの層を、仏教では「悟」層と「迷妄」層、キリスト教では「魂」の層と「罪」の層と呼んで峻別している。だが、これを日常的な用語に置き換えれば、二つの層とは、実は「事実認識の層」と「私的認識の層」であり、別の言い方をすれば「安心層」と「不安層」にほかならない。人は生まれた瞬間から、外なる世界と接触し、全体宇宙を視野の中に取り込んで行く。人が生きるとは、外世界の種々相を休むことなく意識内に取り込んで全体宇宙像を充実させて行く過程を意味している。こうして時々刻々蓄積されて行くイメージと知識が、意識の基盤を形成するから、「人は、なぜ判ったということが分かるか」という哲学上の問題にも答えることが出来る。解答が、意識の基盤に拡がる大海のようなイメージや体験の層、つまり「事実認識の層」と一致適合していたら、「判った」と感じるのである。そして、人がなぜ死ぬことを恐れるかと言えば、この意識の基盤が育てた宇宙像を失いたくないからなのだ。皇太子の暗殺を計画して死刑になった金子ふみ子は、少女期に入水自殺を企てている。自分が置かれている生活環境があまりにも過酷だったからだ。彼女は、川の淵の前に立って着物の袂に砂利を入れ、石を入れた腰巻きを帯のように腹に巻き付けた。用意は出来た。岸の柳につかまって、とろりと静まった淵の底に見入っていると、足がわなわなと震えた。何と静かだろうと子供心にふみ子は考えた。「もう、お別れだ」山や木や石や花や、まわりの一切のものへの強い愛惜の念が突き上げてきた。自分は、これら懐かしいものをすべて残して、この世を去るのだ。このときの体験を念頭に置いて、彼女は後年こう語っている。「私は私の体験からこう断言する事が出来るんです。人が死を怖れるのは、自分が永遠にこの地上から去ると云う事が悲しいんです。言葉をかえて云えば、人は地上のあらゆる現象を平素はなんとも意識して居ないかも知れないが、実は自分そのものの内容なので、その内容を失ってしまうことが悲しいんです」人間は、日々見慣れている何でもない光景や人間を黙殺して生きている。だが、われわれが死を恐れるのは、この何でもないものと別れたくないからなのだ。何の奇もない平凡な日常を永遠に続けたいからなのだ。この世界こそ、人間にとって一番信頼できる安心の世界なのである。(つづく)