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安心と不安(2)

2015/4/13(月) 午後 3:46
 安心と不安(2)当ブログの別のところで、「至福体験」について縷々述べている。愚老が経験したこの体験は、自我意識が生み出す体験とは全く異質のものだったので、自分の中にはもう一人の自己が存在すると思い、この二つの自己の差違について、無い知恵を絞ってあれこれ考えたものだった。そして到達したのは、従来,存在した自己意識は生命体としての個人意識だが、新たに見つかった自己は宇宙に起因する宇宙的な意識ではないかという推論であった。宇宙を一個の生命体と仮定するなら、人間はその生命体の端末に相当する。だから、個人の内部に個我意識が宿ると同時に、宇宙意識が宿っても何の不思議もないのだ。その頃頑固な唯物論者だった筈なのに、自分が宇宙生命だの、その端末としての人間だのという奇妙な考え方に取り付かれたのは不思議なことだったが、「至福体験」があまりにも壮大華麗を極めていたため、個我意識の矮小さと比較しようとすれば、対抗上、宇宙を引っ張り出してくるしかなかったのである。
 個我意識に対抗するために宇宙を引っ張り出し、個人の内部に宇宙意識が内在するという論を立てれば、人間の良心だのヒューマニズムだの、あらゆる良きものを宇宙意識に帰属させざるを得なくなる。向上欲求や人道精神などは、生まれた瞬間から先天的資質として人間の内部にあるけれども、これらは、本来、宇宙生命が内包するものだったのである。だから、人に宇宙意識が存在する限り、われわれは良きものを先天的に取得していることになるなるのだ。こういう宇宙意識の母胎である宇宙生命をとらえて、老子は「道(タオ)」と呼んでいる。老子に従って生きるということは、宇宙生命に従って生きることなのである。しかし年齢を重ねるに従って、あの夜の至福体験を説明するために、宇宙生命やら道(タオ)やらを持って来るのは、知性の敗北を示すようなものではないかという疑問が強くなった。そんな超越的なものを持ってこなくても、至福体験を解明することができるのではなかろうか。人は身の回りに生起する何でもない現象を見聞きしているうちに、主観的な思い込みとは異なる事実認識を取得するようになる、つまり、この世界をあるがままのかたちで受け入れ、それをそのまま受容するようになるのだ。そして、この世界をあるがままの相で受容するということは、この世界をそのまま全面的に肯定し、無条件で愛することを意味している。今から考えると、あの頃の自分は現実世界を憎んでいた。その内面は怒りと憎しみの感情で一杯になっており、深刻な鬱の状態にあったのだった。だが、意識の表層とは裏腹に、その背後には世界を全面的に肯定する事実認識の層が生まれて来ていたのだ。
 愚老はこれまで、表層に増投されていた内的エネルギーが、ある契機を得て裏層をクローズアップする照明エネルギーに転化したから、あの至福体験が生まれたと考えていた。が、これも歳月を経過するとともに訂正の必要を感じるようになった。人は、自我意識を深く掘り下げてゆけば良心や人道精神にたどり着くと誤解している。しかし、良心をはじめとするすべての良きものは事実認識の層に胚胎するのである。たとえば、嘘を言って他人を陥れようとしたとき、背後にある事実認識層はこの行為を本人の前に浮かび上がらせ、その行為が真実ではないと本人に告知する。別に、非難したり、断罪したりするのではなく、ただ事実を告知するだけなのだ。すると、光に照らされると影が生まれるように当人の自我意識内に一つの罪悪感が生まれる。そして当人はこれを自我意識の底に良心が存在するからだと錯覚してしまう。親鸞は悪人こそ救われると説いたけれども、悪をなそうとするものは、その都度、事実認識層の光を受けて、その光の影として自分のなそうとしていることが悪であることを実感する。善人は事実認識層からの光を受けないから、自分は善人だと信じることができ、悪人を救済することを本願とする弥陀の救済に預かることができなくなる。この世を全否定していた過去の愚老の前には、事実認識層がその否定を上回る大きさで 立ち現れて来たから、至福感に包まれたのであった。現世否定の度合いが強ければ強いほど、その人間の前に現れる事実世界も巨大さを増す。従って、至福体験は表層自己が照らし出したのではなく、裏層自己が自己展開した結果として出現したということになる。至福体験の出現によって、現世厭悪の感情は一掃され歓喜の涙を流したものの、その幸福感は翌日には跡形無く消え失せていた。その後、一度だけ至福体験に襲われたことがあったが、それもその時だけに終わって、その後に痕跡を残さなかった。こうして残された問題は、いかにすれば、至福体験当時の心境を取り戻すことができるか、その方法や如何に、ということになったのだった。(つづく)