甘口辛口

安心と不安(3)

2015/4/19(日) 午後 4:52

安心と不安(3)

世に出てから、いつの間にか身につけた生き方は、家庭内では独身者として、社会人としては無国籍人として行動することだった。家族がどう見ているかわからないけれども、自分では家族に対して放任主義で臨んで来たと思っているし、国家社会に対しては徹底して無関心な態度で臨んで来たように思う。

だから、自分では周囲の人々とこちらの間には、何の恩怨もない白紙の関係が保たれていると思い込んでいたのだが、実際はそうではなかった。人々にとっては、こちらの無愛想で素っ気ない態度が、自分たちへの挑戦、あるいは攻撃と見えるらしく、意外なときに意外な反撃をしてくるのである。

若いうちは、他人から「理由のない反撃」を受けても、気にならなかった。平然と無視することができたのである。だが、年をとると、そうはいかなくなった。周囲の反感を凌いでゆくためには、自身に精神療法を施す必要が出てきたのである。

自身にこれから施そうとする精神療法は、目を大きな世界に向けていれば、個人的な小さな問題に囚われることがなくなるはずだという 論理に基づいていた。大きな世界といえば、あの至福体験の折に見た壮大な世界のほかには考えられない。そこで、精神療法の第一歩として、あの体験に少しでも接近する方法を模索し始めたのであった。

頭で考えたり、意志的な努力を重ねたりしてもあの体験に接近できないことは分かっていた。最良の方法は、座禅を組むことかもしれなかったが、腰痛のある身ではそれも不可能だった。となると、残された方法は、芸術療法しかない。

最初に試みたのは、音楽療法で、暇を見つけては畑の中のプレハブ小屋にこもって、モーツアルトやヘンデルを聴くことにした。モーツアルトはCD版の全集を購入してあるので、この時期にモーツアルトをたっぷりと聴いている。が、音楽は聴いている限り、俗事を忘れて穏やかな気持ちでいられるが、その感銘は長続きしなかった。

音楽より効果があったのは、美術鑑賞で、テレビの日曜美術館でワイエスを知ってから、ワイエスの画集を続けさまに3冊購入している。古本ばかりを買い込んでいる身にとっては、美術書は一冊一万円前後するので驚いたが、ワイエスの画集を一ページずつめくっていくと、日常を超えた広い世界が実感できたのである。

ワイエスに続いて購入した向井潤吉の画集は4万3000円したので、また、驚かされたが、この画集に載っている日本の茅葺き民家を眺めていると、広大な宇宙を背景に小さな営みを続ける人間のいじらしさが感じられて、目が離せなくなる。だが、やはり美術から受ける影響も長続きしないのである。

ワイエスや向井潤吉の作品を見ていると、広々とした山野を描いたものより、一軒の民家を単体で描いた作品に宇宙を感じることが多かった。そういう作品を目の前に置いて長く眺めていると、その家を包む広漠な宇宙を感じることができる。けれども、万物を無条件に肯定し受け入れる愛の次元に到達することはできないのである。

意識の表層部にある認識は私的な思い込みに過ぎないが、その背後にある裏層部の認識は事実に即した真実なものだと感じるようになった愚老は、聖徳太子の「事実唯真」という言葉を頭の中で反復しながら、対象を事実唯真の相において眺めようと努力するようになった。これまでは社会を憎み、自己を憎んできたが、事実唯真の相において社会と自己を再把握しようと考えはじめたのだ。そしたら、自分というものを事実の相において眺めているうちに自己認識に大きな変化が生じたのであった。

思い出したくない過去がいくつもある中で、一番思い出したくない過去を取り出して、その事実相を眺めていたのである。従来、この過去を想起するときには、必ず自己弁護の事情をあれこれを持ち出して自分を正当化しようとしたものだったが、そうしたことをやめてあるがままの自分を俎上に乗せて眺めてみたのだ。すると、、自分が可もなく不可もない凡俗な人間に過ぎないことが明らかになった。

10人の人間のうちの8人までが、自分を憎み、自分を憎みながら同時にその自分に執着しているのだった。昔、パスカル全集を読んでいて知ったのだが、パスカルのような天才ですら自分を憎み、同時に自分に執着しているのである。

そして、10人のうち8人までが、この生きずらい社会を憎み、にもかかわらず、その社会において人々から敬愛されようと願っていた。ほとんどすべての人間は、可もなく不可もない人々で、そういう人々が集まって、この世界を作っているのだった。

愚老は依然としてあの夜の体験を再現できないでいる。だが、一歩か二歩、あの体験に接近したような気はしているのだが・・・・・・・