自殺防止の本
最近、一番面白く読んだ本は、末井昭の「自殺」という本だった。
いままで読んで面白いと思っていたのは、西原理恵子や伊藤比呂美など女流作家のエッセーで、西原は漫画家、伊藤は詩人という違いはあるけれども、その歯に衣着せぬズバズバとした物言いには男性作家の評論にはないような爽快な後味があって、読んでいて大いに笑えたのだ。
ところが、偶然手にした末井昭の本を読んでみると、西原、伊藤とは違った種類の毒があるのである。西原、伊藤は、他人がひた隠しにするような家庭の秘事、自身の欠点をあからさまに書いて、それを軸にして世の偽善や矛盾を摘発する。その点は末井昭も同じなのだが、彼が平然と暴露する家庭の秘事や自身の欠点は女性露悪家のそれよりも更に深刻で、それ故に彼の発散する毒は、一層辛辣なものになっているのだった。
末井の本を開くと、冒頭から母親が心中して死んだことが語られれている。その心中相手は
隣家の一人息子で、彼女は相手と抱き合ってダイナマイトを爆発させ、壮烈な死を遂げている。彼自身が告白している自身の不始末も女性たちのそれよりも一段と派手で、ギャンブルや先物買いで三億円もの借金を作っている。
こういう男だから、本などを書く場合、文中に引用する他人の言説なども、ひねりが利いているのである。
「世間というものは、幽霊のようなもので、幽霊にびくびくしている人に幽霊がでるように、世間を怖がる人に世間圧がかかってくる。しかし、革命運動家やアウトロー、世間に反抗する若者たちには、世間のほうが恐れて世間圧はかからない(ひろさちや)」
自分自身の体験を語る言葉にも、なるほどと思わせるものがある。ギャンブルについて彼はこう語っている。
「ギャンブルは疑似自殺のようなもので、勝ったらもちろん嬉しいのですが、負けたら負けたで魂が抜けてフワフワ気持ちよくなったり、負けているところから逆転すると『ああ、生き返った!』と思って喜んだり、勝っても負けても楽しいわけですからなかなかやめられないのかもしれません」
また、こんな述懐もある。
「どんなつらい状況でも、それを笑えるようになれば、生きていくのがうんと楽になります。不思議なもので、自分を肯定できると、相手のことも肯定できるようになります」
面白いといえば、雑誌編集者という立場を生かした末井が、風変わりな人物を呼んできて対談した記事がある。その対談者の一人が月乃光司で、彼は対人恐怖からアルコール依存症になり、自殺未遂、精神科病棟への入退院を繰り返したという経歴の持ち主なのだ。
月乃光司は、この世の生きずらさに悩む人々による公開告白大会というイベントを開催し、自らも「どうしてもオナニーをやめられない変質者としての私」をテーマにして告白を行い、喝采を博している。愚老はこの対談を面白く読んだから、早速、月乃光司の著書を買ってきて読んだほどだ。
同じく末井の著作を読んでから購入した本に「生き地獄天国 雨宮処凛自伝」がある。雨宮処凛は女流のライターだが、その経歴を追っていくと目が回りそうになる。彼女は中学時代にいじめの対象になってからぐれ始め、高校生になるとグループサウンズの追っかけになるのだが、その追っかけ少女らの生態がこちらの想像を超えているのである。
追っかけ生活が続くと、ステージ上の歌手らに顔を覚えられて、ある日歌手からファンに呼び出しがかかるのだ。そこで歌手の泊まっている宿舎に出かけると、セックスの相手をさせられる。こうして楽団員の性の相手を務める少女たちが増えるにつれ、性の提供者になった少女らがグループを形成し楽団のあとを追い、公演旅行の行く先々で男に抱かれたりする。
そういう生活を続ける自分に、世間の冷たい目が注がれはじめると、雨宮処凛はそれならこちらから嫌われ者になってやろうじゃないか、と居直るのである。そこで彼女が何をしたかといえば、社会から憎悪されているオウム真理教の信者になるのだ。
それから、彼女は極左になり、反転して次は右翼団体に加入し、世間が眉をひそめるような集団に次々に加わっている。そして、自伝の終わり近くになると、尊崇の情を捧げていた天皇にもバイバイして、北朝鮮に飛んで、その体制を賛美するようになる。
では、今の彼女はどうしているか。先日の新聞を開いたら、憲法九条を擁護する運動に参加し始めたらしい。雨宮処凛自伝の読者としては、彼女にはこの辺で落ち着いてもらいたいものと思うが、どうであろうか。
とにかく、末井昭の「自殺」は、まがうことなく自殺を防止するための本なのである。
彼は月乃の開催したイベントを見て、「自己をさらけ出すことで自分が解放され、それを見て笑っている人の心も解放される」と説き、やさしくこうさとすのだ。
「みんな死なないでくださいね。生きてて良かったということはいっぱいあるんだから」と。